鉄也は『友達が戦ってるのに自分だけこんな所にいられない・・・
今、国の為にしなければいけない事があるというだけです』
と父に言い放ち戦争に出かけていきました。
その理由は父である東光太郎の言うようなものであったのでしょう。
東博士
「いや,もともと戦争に行ったのも,俺への反抗からだ・・・」
曹長として、辺境の『新たな国土』に出征する鉄也。
そこで見たのは
『テロリストという悪を滅ぼす正義の戦争』などではなく、
反乱分子を捜し出すために、第七管区の無抵抗の住民を殺害していく
血塗られた虐殺の連続だったはずです。
第七管区において、戦友が民間人に引き金を引けないことで、その戦友が上官の坂本に
撃ち殺されそうになり、友人を助ける為とはいえ、ブライの妻を撃ち殺した時から、彼の
原罪が始まったといえます。
『俺はもう人間じゃないんだよ!!』
これは、既に新造人間(に準じる存在)となり、人外の存在となったことの苦しみは
もちろんのこと、同時に戦場において、人間が人間でないもの(と決めた)存在に
何をするのかを知り、自ら殺人という戦闘行為に荷担し人間性を捨てて来た罪の重
さ、その苦しみから出た言葉だと思います。
ここで少し違う作品の話をします。
先日たまたま 『さとうきび畑の唄』 という作品を観る機会がありました。
ライフ イズ ビューティフル にも似た作品ですが、戦争に対する矛盾と哀しさがよく
出ていました。 (リンク先はあらすじの解説です)
戦争は人の心を狂わせ、正常な判断力を失わせる。
しかし、さんまが演じる一家のお父さんである写真屋は、戦争という狂気の中に於いても
自分を見失わなかった。
沖縄戦において負傷した米兵を
『無抵抗じゃないですか。僕には出来ません。僕はこんなことをするために
生まれてきたんじゃないんですよ」
と告白した、平凡な、けれど自分を見失わなかった、そんな人間が上官に殺されてしまった
ところに、戦争の持つ最大の残酷さが現れていた、そんな作品でした。
ここで話をCASSHERNに戻します。
両作品を比べてきると、一見戦争の捉え方については対照的なように思えるでしょう。
しかし、自らを血に染めた鉄也も、この作品の『おとっちゃん』も、それぞれ
人間性を捨てたこと
そして
人間性を保とうとしたことが故に、
一方は計り知れない原罪を抱え、押し潰され、
他方はその為に(おそらくは彼等がヤマトの人と呼ぶ日本人上官により)殺される。
そもそも、鉄也が冒頭で庇った戦友はまさしくこの『おとっちゃん』のような普通の人だった
のではないか。
それを考えると鉄也のしたことも、自らこの『おとっちゃん』にのような人間性を保った人間を
『人間でいさせる為に』
被った鉄也自身の決意ではなかったのか。
そう考えると、鉄也の悲しみがまた別の意味を帯びてくることに気づくかもしれません。
余談ですが、コメディアンの宮迫博之氏を『アクボーン』として助演男優として好演を見せたCASSHERN
も、同じく明石家さんまを『平山幸一こと、おとっつぁん』として作品の持ち味にした『さとうきび畑の唄』も
私個人としてはコメデイアンとしての人間性を良い意味で作品の適材適所に起用した先見性を評価しています。